ポンパドゥール夫人の生涯①幼少期 ニックネームは「レネット(王妃ちゃん)」 平民でありながら貴族のように誰からも愛された完璧過ぎる美少女!

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フランスの美女

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今回こちらのブログではあのフランスの美女「ポンパドゥール夫人」の人生についてご紹介していきたいと思います。

 

現在でも女性の間で大人気のヘアスタイル(髪型)「ポンパドゥール」。

高く上げた前髪を捻ってふんわりと膨らませ、額を出してまとめるお洒落で大人可愛いスタイルですよね。

 

実は、このヘアスタイル「ポンパドゥール」の生みの親が、18世紀のフランス宮廷に君臨した「無冠の女王」ポンパドゥール侯爵夫人なのです。

 

「ポンパドゥール夫人」ことジャンヌ・アントワネット・ポワソン

 

フランス王ルイ15世の愛妾(公妾)として政治までも動かしたというポンパドゥール夫人。

彼女は一体どのようにしてヴェルサイユの頂点にまで上り詰めたのでしょうか。

 

今回のこちらのブログでは、そんなポンパドゥール夫人の人生を追ってご紹介していきたいと思っています。

まずは、彼女の夢へのスタート地点となる幼少期についてをご紹介いたします。

 

◆貴族ではなく平民出身だったポンパドゥール夫人

 

後にポンパドゥール侯爵夫人と名乗る事になるジャンヌ・アントワネット・ポワソンは、1721年12月29日、フランスはパリ2区にあるクレリー通りで生まれました。

 

父フランソワ・ポワソンは、軍需品の調達や金融業などを営むパリス兄弟の下で働く、いわゆるサラリーマン。

母のルイーズ・マドレーヌも、同じくパリス兄弟から仕事を請け負っていたジャン・ド・ラ・モットの娘で、パリでも有名な美貌の持ち主だったといいます。

 

平民と言えども実業で巨万の富を成していた雇い主のパリス兄弟は、その経済力で当時の政治家や国王までも動かせるほどの権勢を誇っていました。

 

そして、ジャンヌ・アントワネット(後のポンパドゥール夫人)も、そんな裕福なブルジョワ階級の娘として生まれたのです。

 

「侯爵夫人」と言うからには、生まれながらの貴族だったのかと思いきや、実は違って平民の出身だったんですね。

ちょと驚きです。

 

◆父の逃亡で一家の危機に

 

父フランソワ・ポワソンはパリス兄弟の下で順調に出世して行き、一家はリシュリュー通りの広い屋敷に引っ越すまでになりますが、1725年、ジャンヌが4歳の時、パリス兄弟によるトウモロコシの闇取引事件が起こります。

 

そして、その責任を負わされたのが父フランソワ・ポワソンでした。

 

その結果、多額の負債を抱えただけでなく、このままフランスに留まれば死刑にもなりかねないことになってしまったポワソンは、逮捕を逃れるためにドイツへと逃亡します。

しかし実はこの罪は全くの濡れ衣で、現在でもよくある大企業のトカゲの尻尾切りのようなものでした。

 

実際、逃亡先のドイツでもポワソンはパリス兄弟の仕事をしていたと言うのですから、なんらかの取引があっての事だったのでしょう。

 

その後、ポワソンは1736年にフランスに帰還を果たします。

 

 

◆逞しく美しい母

 

父のドイツへの逃亡により一家の大黒柱がいなくなり、残されたジャンヌたち親子は途方に暮れました。

リシュリュー通りの屋敷も、家財道具も全て差し押さえられてしまいます。

 

しかし、ジャンヌの母ルイーズは美しいだけでなく逞しい女性でした。

 

まずは借金の取り立てが及ばないよう、法律上の離縁を成立させます。

次に、美貌で名高い自分には、夫以外にも頼れる男がいるという事を知っていました。

 

その男の名はシャルル・フランソワ・ポール・ル・ノルマン・ド・トゥルネーム。

彼は総括徴税請負人でパリス兄弟とも親しいブルジョワです。

 

トゥルネームは母ルイーズだけでなくジャンヌとその弟アベルの世話も引き受け、さらに父ポワソンがパリに戻れるように尽力しました。

 

これで一家が路頭に迷う心配はなくなったのです。

一家を助けた大金持ちのトゥルネームが心も広い人物で本当に良かったといえますね。

 

◆「王の愛妾」に?占い師の驚きの予言

 

その後、ジャンヌは女子教育を受けるためにポワシーの修道院に入ります。

 

しかし、生まれつき体が弱く、すぐに風邪をひいたり咳に悩まされるジャンヌには、修道院の寄宿生活が合いませんでした。

そのため、9歳の時には、すでにパリの母の元に戻って暮らしています。

 

この頃には一家の生活も安定していましたが、やはり母ルイーズはこれからの自分たちの運命や、とりわけジャンヌの未来について不安を感じでいたのでしょう。

1730年のある日、ジャンヌを連れて占い師の館を訪れます。

昔も今も、女性は困った時は「占い」だということにちょっと驚きますよね。

 

そして二人は、占い師のルボン夫人からとても信じられない予言を告げられることになったのです。

「お嬢様は将来、王様の愛妾になられます」

 

このこと以来、ジャンヌは家族から「レネット(王妃ちゃん)」と呼ばれるようになるのでした。

 

 

◆貴族に劣らぬ最高の教育

 

父親替わりのトゥルネームは教育にとても熱心で、ジャンヌには当時望みうる限りの最高の教育を授けたといいます。

 

修道院での女子教育は、裁縫や算数、綴り方など、母親になるための宗教教育でしたが、ジャンヌは修道院を出てからは、在宅でそれとは真逆の世俗教育を受けます。

 

芝居、ダンス、歌唱、朗読と、トゥルネームはジャンヌのためにそれぞれの分野のプロを家庭教師として招きます。

中でも鍵盤楽器のクラヴィコードを完璧に演奏出来た事は、当時とても貴重な才能だったといわれています。

 

また、博物学が好きだったジャンヌは、珍しい植物や鳥類の知識に精通していました。

絵画や彫刻をたしなんだ事はもちろん、筆跡は美文字。

 

加えて家事もそつなくこなしたと言うのですから、その教養はもはや平民でありながらも余裕の貴族超えだったと言えるでしょう。

 

◆ポンパドゥール夫人の容姿は?神様から与えられた美貌と魅力

 

教養だけでなく、ジャンヌは外見の面でも美しく秀でていました。

 

ただ、今も残されている彼女の肖像画を見ると、決してシュッとした八頭身美人と言う訳ではありません。

全体的にふんわり、ほんわかとした雰囲気で、今で言えば「癒し系美女」という感じでしょうか。

 

 

彼女の美貌を賞賛する言葉は数多く残されていますが、中でも一番のチャームポイントは瞳だったようです。

 

彼女の瞳の色は、青とも黒とも灰色とも言えない微妙な色で、瞳の色と共に変化する豊かな表情に、人々は魅了されずにはいられなかったと言います。

 

後に弟のアベルが「どの肖像画も彼女の本当の美しさを伝えていない」と語った理由は、その美しさが表面的ではなく内面から溢れ出るものだったからなのではないでしょうか。

 

少女時代のジャンヌは老若男女を問わず、誰からも愛された美少女。

そう、現在のアイドルのような存在だったのかも知れませんね。

 

 

◆まとめ

 

 

天性の美しさと、最高の教育によって身につけた教養を武器に、ジャンヌは16歳でパリの社交界にデビューします。

 

タンサン夫人やジョフラン夫人が主催する有名サロンで見事な才能を披露したジャンヌの噂は、あっと言う間にパリ中に広がって行きます。

ヴォルテールら一流の文化人も、ジャンヌお目当てでサロンに集まるほどでしたので、すでに頭角を現していますね。

 

そんなジャンヌにはそろそろ結婚話が持ち上がり始めますが、実は、ジャンヌの心には占い師から「王様の愛妾になる」と言われたあの日から「野心」と言う名の小さな炎が灯っていました。

 

そして、この妖精の噂が国王ルイ15世の耳に届く日も、そう遠くはなかったのです。

 

ポンパドゥール夫人の生涯(人生)②へ続きます。

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